デザイナーはもっとオープンになるべき?コイ・ヴィンが考えるデザイナーのこれからの姿 #UXDojo

デザイナーの価値と役割を考えるイベントWhy Design Tokyo 2019が2月9-10日に開催されます。初日は午後1時から10セッションが予定されていますが、そのオープニングを飾るキーノートのために来日する講演者の1人が、アドビのシニアプリンシパルデザイナーのコイ・ヴィン(Khoi Vinh)です。コイは普段からデザイナーの現状に対する批評を積極的に行っていて、日本のデザイナーの置かれている状況にも大きな関心を持っています。

アドビのシニアプリンシパルデザイナーのコイ・ビン(Khoi Vinh)

この記事では、イベントに先立って、コイの最近の関心事を「デザイン思考に対する擁護。ひどいものではあるけれど(In Defense of Design Thinking, Which Is Terrible)」という記事から抜粋して紹介します。この記事は、デザインジャーナリストのフィル・パットンを記念してスクール・オブ・ビジュアル・アーツが毎年開催しているPhil Patton Lectureの講演のために書かれたもので、「デザイン思考はたわごとだ(Design thinking is bullshit)」という講演をしたこともあるナターシャ・ジェン(Natasha Jen)への返答として用意されたものです。その根底にある発想は「デザインの民主化」です。

デザインはデザイナーだけの仕事か?

上の図はナターシャがまとめたデザイン思考の定義です。彼女が言わんとしているのは、基本的に、デザイン思考は誰もがデザイナーのように考えて問題解決できる手順を示したものだということです。

そう聞いて、「誰もがデザイナーのように」の個所に何かひっかかるものを感じた人はいないでしょうか?デザインは、訓練されて必要なスキルと経験を持ったデザイナーが行うべきものという考え方は、ごく一般的な認識です。であれば、その資格に値しない者がデザイナーのように振舞うことに違和感を覚えたとしても、特に不思議なことではありません。

コイは、このような「常識」が広まっている背景の一つとして、デザインを何か神秘的なものとしてベールで包み隠すことに、ビジネスとして意味があったと指摘します。_“時代をリードする才能溢れる気鋭のデザイナー集団” _のような売り文句は、誰しも目にした覚えがあるでしょう。すなわち、デザインが一般人から遠い存在であるほどデザイナーの価値が上がるというアプローチです。

There has long been an economic incentive for designers, especially in studios and agencies, to shroud design itself in secrecy.

デザイナーが、特殊な才能に属する領域としてデザインを特別視する傾向を持つのは、周囲からの刷り込みや、もしかすると本質的な欲求もあるのかもしれません。ともあれ、コイはここに問題を見出しています。デザインの神秘化と特殊な才能の強調は、デザイナーの言葉を、更にはデザインの価値を広く社会に伝えることを困難にする側面を持つと言うのです。

良いデザインと悪いデザイン

誰もがデザインするようになると、悪いデザインをする人の数が増えるでしょう。そして、悪いデザインの氾濫は、デザインの価値を下げることにつながりかねません。そもそも、誰でもデザインできるという話になれば、デザイナーという職種自体が成り立たなくなりそうです。こうした懸念も、デザイナーがデザインに境界を引きたがる理由の一つだとコイは考えています。

そこで彼が比較の対象に持ち出すのはエンジニアリングです。エンジニアリングの分野では、悪いコードの存在がその価値を脅かしてはいない。むしろ、悪いコードも受け入れて境界を広げてきたことが、エンジニアリングの社会的な地位の向上に寄与していると彼は語ります。

It’s worth noting though that engineering as a discipline, as a trade, as a profession is largely unthreatened by the idea of bad code.

境界を開くという観点からは、オープンソースは興味深い取り組みです。このモデルでは、一般の目が届く場所でソフトウェアのコードが更新され、誰でも参加して自身が開発したコードを配布できます。オープンソースへの取り組みは、今や業界では一定の評価を得て、ソフトウェア開発に大きな影響を与える存在になっています。最近ではAdobe XDがプラグインAPIとSDKを一般公開しました。誰もが機能を拡張するコードを書いてそれを共有できることがツールの価値を高めると判断された一例です。

アップルの “Everyone Can Code” プロモーション

Swift Playgroundsは子供がプログラミングを学べるようにとアップルが開発したiPadアプリです。アップルが自社技術への理解者の増加にメリットを感じるのは当然として、ここで注目すべきは、例え悪いコードを書く人が増える可能性が見えていても、“Everyone Can Code”(誰もがコードを書ける)というアイデアが、エンジニアリング業界では前向きに受け取られている点だとコイは言います。

エンジニアリングが持つ社会的な影響

一般的に使われているエンジニアリングの概念、例えば「リブート」という言葉を使うとき、コンピューターの専門家でなくても、それが照明のオンオフとは違う何かであることを理解しています。多くの人が「オフライン」という言葉を使い、自分の生活の中に存在する状況を技術と関連づけて日常的に語っています。“1.0”や“2.0”のような数字を目にした時、ソフトウェア開発に由来する特定の意味を理解できる人は少なくないでしょう。

大勢がエンジニアの言葉を理解すればするほど、エンジニアリングについて伝えることは容易になります。エンジニアリングの語彙が一般に広まったことが、エンジニアリングの重要性に対する社会の認知度を高める一助になった。それがコイの主張です。

Engineering has been incredibly democratized and it’s been good for engineers. Today’s engineers are in greater demand than ever.

例えば、FacebookやGoogleがユーザーに与える精神的なストレスについて人々が語るとき、多くの人はそれを技術(ネットやデバイス)の問題、場合によっては会社経営の問題として扱います。デザイナーなら、この問題に対するデザインの関与を容易に想像できるでしょう。しかし、デザインの問題として語られる記事を見かけることはほぼありません。

これまでデザイナーはデザインを特別な領域として扱う傾向にありました。それが、デザイナーが持つ全能力を発揮してプロジェクトに貢献する機会を制限してきたとコイは考えています。社会に影響を与えるだけの力を持ちながら(と少なくともデザイナー自身は考えているものの)、そのポテンシャルを一般に認知させるには、従来の戦略は逆効果だったという見解です。

コミュニティの狭さに起因する問題

もし周囲に理解されないのなら、デザイナーは誰と話しているのでしょうか。それは同じ言葉や考えを持つ相手、すなわちデザイナー仲間です。デザイナー向けの記事や講演を見ればその傾向は明らかです。

そのためデザインコミュニティはごく狭いものになっています。もちろんこれには利点があります。関係の近さは協力や知識の共有を容易にします。一方で、当然ながら欠点もあります。近さは会話を制限します。親しい相手や仕事の利害関係がある相手への遠慮のない批判は一般的に困難です。内輪だけで、デザイナーによる当たり障りのない声だけがデザインに関する会話を支配する状況は、「デザインに理解ある社会」の実現を目指すには障害とも言えるものです。

建築批評でピューリツァー賞候補にもなったマイケル・キンメルマン。他の業界では独立した批評家の存在が一般大衆の理解の拡大に貢献してきた

コイは、デザイン業界にも外部からの客観的な声が必要だと考えています。そのため、デザイナー以外の人がデザインと向き合うことは重要で、デザイン思考はその重要な機会を提供するものと評価しています。たとえ、デザイン思考は表面的で、誤解を招きがちで、悪いデザインを生み出す可能性を持つものであるとしてもです。

デザインの語彙を広め、コミュニティを拡大し、デザインの力を重要視する社会をつくることを、「デザインの民主化」とコイは表現します。現状はどちらかといえば、特権階級である(と自分たちは思っている)デザイナーの閉じた、多くの人には正体不明の世界というところでしょうか。

コイの記事の最後には次の質問が書かれています。「果たして我々はどちらを目指すべきでしょうか?」