人間中心設計の先駆者ドン・ノーマンが語る『共感によるデザイン』への疑念と、代わりにすべきこと | アドビUX道場 #UXDojo

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エクスペリエンスデザインの基礎知識

私はデザインに共感を持ち込もうとする動きの趣意は認めます。ですが、私はそのコンセプトは不可能だと考えています。仮に可能だとしても間違いだと思います。私たちがデザインという行為における共感についてよく話す理由は、デザインする対象となる人々を実際に理解する必要があるからです。本質的にそれは、ユーザーの頭の中を覗いて彼らの感情や考えを理解しようという試みです。

私の意見ではこれは不可能です。理由は次の通りです。もし私がある特定の人のために医療リハビリ用のデバイスをデザインしているとしたら、その人の好み、パーソナリティ、抱えている問題、世界との関わり方をきちんと理解することが不可欠だと論じることはできるでしょう。でもこれは比較的まれなケースです。多くの場合、私たちは沢山の人が使うことになる製品やサービスをつくり出しています。数百、数千、ときには数百万の人が相手です。Facebookだったら数十億人です。つまり、一人ひとり理解したとしても、実際にはあまり有用ではないということです。

代わりに私たちが注目しなければならないのは、人々が遂行しようとしている行為です。また、人々の能力やモノの見方、さらには彼らををサポートする方法を理解しなければなりません。それは、人が持つ様々な能力の広範な理解を私たちに要求します。例えば読む行為です。どんどんテキストは見えづらくなっています。私が言わんとしているのは、実際に存在していても判読しづらいということです。実のところ私にはそれが読めません。「テキストが美しくない、あるいは邪魔になる」と主張するグラフィックデザイナーによってずっと奪われてきました。彼らは、フォントを小さくしてコントラストを低くして、より良い見栄えにしました。もしあなたが20才のプログラマーならそれを読むことができるでしょう。でも、私のような83才の老人には読めません。私は常に懐中電灯を持ち歩いています。テキストを照らしてコントラストを上げるためです。そうすれば読めるかもしれません。なんという苦痛でしょう。

私たちは調整したり変更できるものをつくらなければなりません。それでも、もし5%~10%の人を除外するのなら、実際には10万の人を除外することになるかもしれません。だからこそ人々の実際の能力と真のニーズに合わせることが、本当に大切なのです。私たちは数百万の人々の頭の中を知ることはできません。そもそもしなくて良いのです。私たちがなすべきことは、人々が何をしようとしているのかを理解し、それを可能にすることです。私たちは、人々の心が分かるという考えに踊らされてはなりません。

私が共感を持つことが不可能だと考えるのはなぜか?

2つ例を挙げましょう。まず、私は自分自身の行為を理解できないことがあります。その理由の一部は、私たちの行為の多くが無意識に行われているからです。私たちの意識は後から無意識に行われた行為を発見して、何とか理解して意味づけしようとします。翌日になって「どうしてあんなことを言ったんだっけ?」と思うのはよくあることです。私たちの意識は、自身の無意識にほとんどあるいはまったく共感を覚えません。

もう一つの例です。私が最も長く一緒に過ごしてきたのは妻です。現時点で50年になります。私たちは実にうまくやってきました。それでもお互いをよく理解できないことがあります。彼女が何か話したことで私たちは一緒に笑い、その時私は彼女の言葉を聞いて理解をしているのですが、後になって、彼女が言いたかったことと私が理解したことが全く異なると判明する状況が、実に頻繁に起きるのです。そしてこれはどの人にもごく普通に起きることです。

こうしたくい違いは人々の間の距離とは関係なく起きます。確かにサンフランシスコのデザイナーはインドの人々を理解しないかもしれません。しかし、バンガロールのデザイナーは、インドの田舎の人々を理解しません。たとえ自分が住む街の中でも、貧しい人々、あるいはホームレスが住むエリアには足を踏み入れたことがないかもしれません。そこに行ったことが無かったり、そこにいる人と話したことがなければ、もちろん彼らの問題を理解することはできません。そして目の前にいても理解できないことはあります。それはカルチャーの問題です。教育を受けて学識あるデザイナーと路上で生活する人の間には、カルチャーギャップが存在します。

共感を探求するというのは聞こえは良いかもしれませんが、間違った方向です。

“21st Century Design” Don Norman – Interaction19:主催 Interaction Design AssociationVimeoに公開)

社会課題を解決するためのデザイン

私が何年もの間提唱してきたタイプのデザイン手法、人間中心設計のプロセスでは、何かをデザインするために実際に現場に行って本当の問題が何で人々の真のニーズが何かを理解しなければなりません。そのため、まず人類学者やデザイン調査員を送り込み、それからデザイナーが技術的な実現性とコストと期間の制限の範囲内で適切な解決案を見つけようとします。最終的には何かを構築し、対象としている人々にとって実際に役立つことを確認するため、何回か確認と改善を繰り返します。

これは今でも適切な手順です。特に一連の製品群を抱えていてそれを改善しようとしている時、大衆市場向けのデザインをしている時には効果的です。しかし、私の現在の仕事で向き合っているのは別の種類の問題です。世界のいろんな社会が直面している主要な課題、例えば、飢餓・教育・健康・セキュリティなどです。過去数十年の間に、数多くの人々がこれらの課題を解決しようと試みてきました。多くのプロジェクトで人間中心設計のアプローチが使われました。しかし、それらのプロジェクトの成功率はいつも惨めなほどに低いものでした。完全に失敗したものもあれば、予定よりずっと長くかかったり、予算を大幅に超えたものもありました。

課題の専門家が現地入りして人々に何をすべきかをトップダウンで語るのも、同様に役立ちません。専門家は現地のカルチャーを知りません。助けようとしている人々の属性、スキル、真に必要としているものを理解していません。一方、どんなコミュニティにもとてもクリエイティブな人々がいます。もし彼らと会えば、彼らが直面している課題の解決案を既に持っていることでしょう。

ですが、現地の人々が解決できるのは症状だけです。根本劇な原因ではありません。彼らが関わる範囲は比較的限られています。もし症状だけ解決して原因はそのままなら、別の症状が現れるだけです。そこで私たちが提案しているのは、専門家と現地の人々の組み合わせです。専門家は解決案を提示する役ではなく、ファシリテーターやガイドやメンターであるべきです。必要なのは、専門家の知識によるトップダウンのアプローチと現地のコミュニティによるボトムアップのアプローチ両方です。実際の進め方は世界各地のコミュニティごとに、それぞれの状況に合わせた異なるものを考えなければならないでしょう。

実際のところ、私たちのアプローチは、専門家とコミュニティの知識を組み合わせるだけではありません。政治的な争いに巻き込まれることなく大きく複雑なシステムに取り組むという困難もあります。また、専門家がコミュニティの専門家をひいきすることなく、ファシリテーターやメンターに専念するようにしなければなりません。とはいえ、この件について全部書いたら一冊の本になるでしょう。

この記事はWhy I Don’t Believe in Empathic Design(著者:Don Norman)の抄訳です