PDFの生みの親 チャック・ゲシキ博士の功績を振り返る

Adobe co-founders: Charles M. Geschke, John Warnock

Adobe co-founders: Charles M. Geschke, John Warnock

2021年4月16日に81歳で亡くったアドビ創業者のチャールズ・ゲシキ(Charles Geschke)博士の功績を振り返り、アドビ日本法人のベテラン社員にASCII編集部の大谷氏がインタビューした内容を転載します。

Acrobat Readerの無償配布でデファクトスタンダードが決まった

大谷:まずは自己紹介とアドビへの入社について教えてください。

アドビ 今西祐之(以下、今西):1998年の入社です。アドビには「FrameMaker」というDTPソフトがありますが、もともとはそのライバル製品を開発販売していたインターリーフ社に所属していました。アドビ入社時はFrameMaker担当でしたが、1999年からPDFとAcrobatの技術を担当しています。

アドビ シニアプロダクトスペシャリスト 今西祐之氏

アドビ シニアプロダクトスペシャリスト 今西祐之氏

大谷:PDFとの出会いは?

今西:最初にPDFを知ったのはインターリーフ在籍時。当時はXMLのベースとなったSGML(Standard Generalized Markup Language)のフォーマットをベースにしたDTPソフトを作っていて、おもに製品・保守マニュアル作成向けに販売していました。一方、FrameMakerの開発元だったフレームテクノロジーをアドビがパブリッシング用に採用したフォーマットがPDFです。だから当時はインターリーフのライバル。だから、「PDFなんて開くのに時間かかる」とか揶揄していましたよ(笑)。

大谷:ライバルの立場でPDFを見ていたんですね。

今西:そうなんです。ただ、決定的だったのはファイルを閲覧するためのビューアー。インターリーフは有料で販売していたのですが、アドビは当時からAcrobat Readerを無償配布していましたし、WebブラウザでPDFを開くためのプラグインを提供し始めていました。その頃を契機に私もアドビに移ることになりました。だから、私から観たPDFやAcrobatの印象は、とにかくインターネット時代にすばやく対応したということですね。

ファイルフォーマットやデータ交換の悩みを解消できるPDF

大谷:続いて楠藤さんも自己紹介をお願いします。

アドビ 楠藤倫太郎氏(以下、楠藤):私は2000年入社で、ずっと営業部門にいます。アドビの営業で20年いるメンバーはさすがにもういないですね(笑)。

大谷:確かに外資系ではここまで長いのは珍しいですね。どうしてアドビに?

楠藤:当時はジャストシステムで、政府関係を相手に「一太郎」を販売していました。ただ、当時は省庁ごとに一太郎やWord、OASYSなど使っているファイルの形式が違っていたんです。そんな中に省庁再編の波が来て、構造化された文書を各省庁で相互に交換する検討が始まりました。総務省による行政文書の構造化文書を研究する分科会にアドバイザーとして参加する機会を得たのですが、構造化された中身と見た目の関係を、なかなか理解してもらえませんでした。

大谷:現在のHTML4.0における、HTMLが構造化フォーマット、CSSがデザインという役割分担ですよね。

楠藤:いくら見出しが大きくても、あくまで見た目の問題で、構造とは違いますよね。結局、構造化された文書フォーマットを作るため、ジャストシステムとしてはSGMLに対応した一太郎を作りましたが、利用は進みませんでした。その点、PDFは当時から構造化された中身と見栄えをファイルフォーマットの中に両立させていたんです。

大谷:では、ファイルフォーマットやデータ交換の課題を解決できるソリューションとしてPDFとAcrobatに行き着いたんですね。

楠藤:そうです。ただし、当時はPDFの情報が少なく、よくわからない状況でしたし、アドビからの参加者もいませんでした。そういった経緯からPDFに興味を持ち、アドビに入社しました。先ほど出てきたAcrobat Readerも最初は有償で売るつもりだったらしいです。しかし幅広く普及しなければという思いから、情報を提供する側に料金を負担いただき、情報を受信する側には無償にする。つまり電話と同じで発信者側に課金するのと同じような考え方で無償になったようです。

ライバルはあくまで紙 PDFはコミュニケーションツール

大谷:創業者の二人にはお会いする機会はあったのでしょうか?

楠藤:私が入社した21年前の時点でチャックはすでに60歳だったと記憶しています。取締役会メンバーになってからは来日していないはずです。ただ、入社直後に一度来日していて、彼が参加した社内ミーティングに参加したことがあります。その際にいろいろ調べてみると、改めてすごい人だなと。

大谷:設計思想は生きていたわけですね。

The Camelot Projectと名付けられたPDFの設計思想を書いたメモ

The Camelot Projectと名付けられたPDFの設計思想を書いたメモ

楠藤:チャックが語っていたのは「PDFのライバルは紙である」ということ。Webページ(HTML)でも、Wordでもなくて、紙なんです。だから、当初から紙以上のものを作るにはどうしたらよいかという大きなビジョンを描き、紙でできることは当たり前にでき、デジタルでないとできないことを追求していました。ですから、私もペーパーワークに価値を感じているお客さまにこそ、Acrobatは売れると思いました。予想通り、官公庁はペーパーワークの価値を理解していたので、いち早く導入してくれました。

今西:アドビはPostScriptからスタートした会社ですが、PDFはその次のステップとなるファイルフォーマットです。PostScriptはデバイスに依存せずに印刷を可能にする言語でしたが、PDFも同じくデバイスに依存せず、ドキュメントを読める環境を実現するという目的がありました。両者とも技術ベースは同じですが、DTP・デザインツールと異なり、創業者の二人はPDFやAcrobatをビジネスコミュニケーションツールと考えていました。

大谷:では、Acrobatはコミュニケーションツールとして進化してきたんですね。

今西:はい。僕がアドビに入社した当時、Acrobatのバージョンは3.0で、ちょうど4.0をリリースしようとしていた頃。でも、Acrobatはバージョン2.0の頃から注釈を付けたり、暗号化してパスワードをかける機能を備えていたんです。

大谷:なるほど。Acrobatの主要な機能は、25年以上前にすでに搭載されていたんですね。

楠藤:はい。テレワークやDXにおいて、これから役立つであろう機能が20年前にすでに実装されていたわけです。

大谷:日本語対応についていかがですか?

今西:僕が入社した当時でも、日本語対応していました。3.0や4.0はまだ未熟な部分はありましたが、5.0では十分になったと思います。アドビも日本市場を重視していました。

楠藤:多言語対応する際は、やはり優先順位が付けられるのですが、優先順位の高いグループの米英独仏の中に日本も入っています。日本市場はワールドワイドでもシェアが大きいし、日本のお客さまは品質に厳しいので、製品も鍛えられます。(DTPソフトである)InDesignが日本市場でデファクトになったのも、日本のお客さまからのタフなリクエストに応えられたからですね。

今西:アドビは会社として日本語への造詣が深かったんです。昔、オライリーから「日本語情報処理」という技術書籍が出ていたのですが、これを書いたケン・ランディはアドビの社員でした。のちに彼は「日中韓越情報処理」という本も書いています。国産製品や国内メーカーであることをアピールするPDFツールのメーカーもありますが、ITの世界では別に日本人だからといって日本語をうまく処理できるわけではないですよね。フォントや文字コードの概念を理解でき、適切に扱えるプロフェッショナルがいるから、言語の壁が障壁にならなかったのだと思います。

電子署名の機能はパートナーや社内ですら理解されなかった

大谷:では、3.0や4.0といったバージョンではどんな進化があったのでしょうか?

今西:バージョン4.0の目玉の1つとして搭載されたのが電子署名です。今となっては電子契約のためにPDFを使うのは当たり前になっていますが、当時は私も電子署名を理解できなくて、ちゃんと説明できるようになったのはリリースから約1年後ですね。

楠藤:電子署名の仕掛けって、基本的には公的な機関がデジタルの世界で印鑑登録を行なうようなものなので、なかなか大がかりです。電話と同じように、相手も同じツールを持っていないとワークしません。そういう意味でコミュニケーションツール。でも、お客さまやパートナー企業はもちろん、社内ですらこの概念はわかってもらえませんでした。ですから、パートナーに対してではなく、お客さまに対するダイレクト営業がメインでした。お客さまに使ってもらい、価値を理解してもらえれば、買ってくれるだろうということです。もちろん、とても大変だったのですが……。

大谷:では、どうやって電子署名を訴求してきたのですか?

楠藤:Acrobatの電子署名は、4.0にはほぼ完全な機能が搭載されていて、はんこのように押印が見える可視署名と、印影が見えない不可視署名の両方をサポートしていました。その一方で、国内ベンダーはテキストベースのXMLだったので、確かに改ざん検知や暗号化はできるのですが、目に見える可視署名はできなかったのです。一方、2001年には国内でも電子署名法が施行され、電子署名にも手書きの署名や押印と同じ効力が認められる法的な基盤ができました。この法律を作るために経産省や国交省、法務省のメンバーでチームを作ったのですが、グレーゾーンも残りました。国内ベンダーにいろいろ聞いたらしいのですが、「可視署名は実現不可」というベースで進んだと聞いたことがあります。

大谷:売る側も、買う側も、暗中模索していたんですね。

楠藤:そんな中で、経済産業省に呼ばれてAcrobatを見てもらったところ、署名していることが目で見てわかることに驚かれました。つまり、技術的には理解されていても、可視署名は実装できないと思われていたのです。でも、署名したことが人の目に見えない電子署名はやっぱり使いづらいんですよね。もちろん、サーバー側で署名を検証する仕組みもあるかもしれませんが、サービスが終了したら、オンプレに残ったPDFファイルは誰が検証できるのかという話になります。その点、現在の電子署名はほぼPDFに対して行なうのですが、署名を表示して、検証する仕組みはAcrobat Readerに依存しています。

大谷:PDFの電子署名に関してはアドビの技術がベースなんですね。

楠藤:商法改正のときも、法務省に働きかけて電子署名の規格にアドビの技術を提案しました。当然、「独自技術じゃないか?」と言われましたが、実際は公開されている技術だから、国内ベンダーでも開発できます、ということで、官報にも記載されました。

今も世に出ているPDFの電子署名はほぼアドビが提唱した技術を使っているはずだし、署名されているPDFを検証するための機能も、PCで動作するすべてのAcrobat Readerに実装してきました。無償で提供している割には、Acrobat Readerにはさまざまな技術が投入され、巨額の開発投資が行なわれているのです。

乱造されるPDFツール 「ちゃんとしたPDF」を使ってほしい理由

大谷:結果として、PDFは国際規格になりましたね。

楠藤:アドビはPDFの仕様を当初から公開しています。ただ、PDFの利用拡大とともに、汎用PDFの仕様にとどまらず、印刷・入稿用、ヘルスケア、アーカイブ、エンジニアリングなど用途にあわせた仕様が増えてしまったため、1社で抱えるには重くなってしまったんです。そのため、AIIM (Association for Intelligent Information Management)という団体を経由して、PDF1.7をベースにして国際標準化したのがISO32000-1です。そして、このISO32000-1のドキュメントを書いているのもアドビのエンジニアです。たぶん200ユーロくらいで手に入ります。

エンタープライズ製品戦略部 担当部長 楠藤倫太郎氏

エンタープライズ製品戦略部 担当部長 楠藤倫太郎氏

ただ、PDFは国際規格になったため、誰でもツールを作れるようになり、安価なPDFツールがいっぱい出てきました。でも、それだと構造化を伴わない見た目だけのPDFしか作れないことも多いのです。でもわれわれとしてはお客さまに「ちゃんとしたPDF」を使ってほしいんです。

大谷:ちゃんとしたPDFというのは、規格に基づいた構造化されたPDFということですよね。

楠藤:とあるお客さまが使っていたPDFツールは、プリンターフォントを不完全な形で埋め込んでしまったため、別の環境で読めなくなりました。弊社に問い合わせが来たのですが、Acrobatで生成したPDFではないので、どうしようもありませんでした。

別のお客さまからはAcrobatだと外字フォントが埋め込めないという問い合わせが来たのですが、フォントの権利関係から、埋め込みを禁止するフラグが外字フォント内に立っていて、Acrobatがこれをきちんと解釈したから起こった出来事でした。他のツールはフラグを無視していたので、むしろ外字フォントを埋め込めてしまっていました。

大谷:なぜこうしたことが起こるのでしょうか?

楠藤:私もISOのドキュメント読みましたが、仕様の一部だけをサポートしても「準拠」とうたえないことは明言されていますし、Windowsはもとより、DOS、UNIX、Macもサポートしなければなりません。でも、他のベンダーはWindows版しか出していなかったり、ISO準拠をうたいながら、仕様を公開していないところも多い。PDFビューアーを名乗る限りは100%表示できなければならないし、署名検証機能などが実装されていないPDFビューアーは、ISOに準拠していないと言えます。そうした製品で作ったPDFは、不完全な情報が登録されたデータベースと同じで、これからDXのインプットとして耐えられるのか疑問です。見栄えだけではなく、構造化された文書としての体裁を保ったPDFによって、初めてDXが実現できるものだと思うのです。

大谷:ユーザーとしては、国際規格として標準化されたフォーマットなんだからということで、PDFを信じていますからね。

PDF開発者の描いた未来はむしろこれから必要とされる

大谷:もうすぐPDFが生まれて30年になるそうですが、今後のPDFとAcrobatってどのような方向に進化していくのでしょうか?

楠藤:今後は違和感なくWebにPDFが溶け込む世界になっていきます。WebページとPDFとの違いは、PDFはページの概念を持っているという点です。有限のスペースにテキストやベクターデータのオブジェクトを埋め込むのがPDF。だから、PDFでは「3ページの5行目」という指定が可能ですよね。さらに今では、PDFをサーバー側でレンダリングしてHTMLに出力すると、Acrobat Readerを持っていないユーザーがWebブラウザでPDFを見たときでも、どのページに滞在しているのか、どんなキーワードで検索しているのかがわかるようになります。これをAdobe Analyticsを使えばPDFへのアクセス状況が計測できるようになるのです。

大谷:なるほど。Webサイト側からすると、HTMLだろうが、Webページであろうが、関係ない世界になるわけですね。

楠藤:はい。従来はPDFをダウンロードしていることはわかっても、どこを読んでいるのか、なにを調べているのかまではわかりませんでした。でも、今はWebマーケティングがPDFベースでもできるようになってきました。

大谷:さて、今回の取材は最後の質問に「PDF開発者であるチャックとジョンの未来は実現できたと思いますか?」にしようと思ったのですが、話を伺っていると、まだまだ思い描いていた世界ではないかもしれませんね。

楠藤:むしろこれから必要とされる未来なんだと思います。最近は「DX」という言葉をよく耳にしますが、「紙業務のDX」と言われてもイメージしにくいかもしれません。そこで、「アナログをデジタルにするのではなく、フィジカルをデジタルにする」というイメージを伝えようとしています。結局、フィジカル(物理的な媒体としての紙)がすべてを止めているのです。PDFから見て、紙が強敵というのはそこです。コロナ禍においても、毎日出社が必要になるというすごい媒体なんです。だからフィジカルなしでも業務が進むという方策を用意しなければならない。そのためにはフィジカルをデジタルにするという考え方とインフラが必要になるし、デジタルな働き方を支えるのがPDFだと思っています。

今西:PDFのパワーをフル活用できていないという点では、われわれの力不足もあるんですよ。だから、いまアドビはAIの力を利用して、構造化されていないPDFを構造化できるようにしようとしています。

楠藤:確かにAIのような技術がなければ、難しかったかもしれない。その意味では、今ではクラウドを使うことで、どこでもPDFを活用できるようになっていますし、デバイスも変わってきています。つねづね「A4縦が見開きで見られるようにならないと、紙を置き換えられない」という話をしていますが、マルチモニターも安くなっています。インフラも、ネットワークも、デバイスも整って初めて、創業者の二人が描いた未来が実現するのだと思います。

大谷:そういえば、昔はPDFを開くのけっこう時間かかっていたんですよね(笑)。でも、今は圧倒的にハードウェアが向上したので、快適に扱えますし、インターネットも使いやすくなっています。技術が底上げされて、PDF開発者が描いた理想に近づいているのかもしれませんね。

楠藤:はい、チャックとジョンの生み出したPDFが、これからの紙業務のデジタル化をさらに進めてくれることを期待しています。

出典:PDF開発者が描いた未来は実現されたのか? アドビのベテラン社員に聞いたー【追悼】PDFの生みの親 チャック・ゲシキ博士の功績を振り返る

2021年5月28日更新  文_大谷イビザ, 編集_ASCII