Illustratorと出会い、家紋のワザはアートに変わった。伝統の表現を拡張し、クリエイティブを展開する紋章上繪師 波戸場親子の挑戦
東京・稲荷町にある「誂処 京源」は、家紋を軸にデザイン、アートの領域で幅広く活動をする会社です。日本に古くから存在する家紋とそれを描き出す技術はいま、Adobe Illustratorを中心としたデジタルツールとの出会いによって、大きな飛躍を遂げています。
果たして家紋の世界にどのような変化が起きているのか。紋章上繪師(もんしょううわえし)の波戸場 承龍さんと波戸場 耀次さんに話を聞きました。
紋章上繪師・波戸場 承龍さん(京源三代目/左)と波戸場 耀次さん(右)
幾重もの円から紋が浮かび上がる「紋曼荼羅」
波戸場承龍「麒麟曼荼羅」(2019)/日本橋の麒麟を紋にしたもので、2,582もの正円によって描き出されている
「紋曼荼羅® MON-MANDALA®」。
これは紋を構成する円が折り重なることで、まるで曼荼羅のように見えることから名付けられた承龍さんオリジナルの技法です。
数百、数千と積み重ねられた円から切り出された弧は、繋ぎ合わせられることでひとつの紋を織りなします。描いた円のほぼ全周を使うこともあれば、小さな紋に対して不釣り合いなほど大きな円のなかからわずかな円弧を取り出すこともあり、その過程はまるで広大な宇宙からひとつのかたちを生み出すかのような、まさに“曼荼羅”の名がふさわしいスケール感を備えています。この「紋曼荼羅」は紋がもつデザイン性、造形性のみならず、思考、手技のプロセスをも視覚化することで、紋をアートの領域にまで高めた作品と言っても過言ではありません。
それまで着物に家紋を描き入れる紋章上繪師だった承龍さんが、こうしたアートに取り組むようになったのはなぜなのでしょうか。この技法が生まれた背景には、承龍さんとAdobe Illustratorとの出会いがありました。
波戸場承龍「麒麟曼荼羅」(2019)部分/過程で描かれる円そのものは残し、紋を構成する部分のみ太くなっている
50歳にして紋を軸にしたデザインの道へ
承龍さんが三代目となる京源は、承龍さんの祖父が1910年に紋糊屋として創業しました。紋糊屋とは白生地の紋を入れる部分に糊を置くことで、色が乗らないようにする工程を担当する職人です。
二代目にあたる承龍さんの父の代には、着物に家紋を描く職人・上繪師として仕事をするようになります。
承龍さんも同業者の紹介を受け、日本橋浜町の紋章上繪師・福田昭三さんのもとで5年間の修行を積み、1980年には独立を果たしますが、当時は社会の変化、技術の変化によって、“着物に手描きで紋を入れる”ということ自体、需要が減りつつある時代でした。
承龍「家紋を入れる工程は1960年代からシルクスクリーンが使われるようになっていて、手描きで紋を入れることもあれば、シルクスクリーン用に原図を描くこともありました。
僕が独立した1970〜1980年代はテレビショッピングやラジオショッピングで留袖や喪服がよく売れた時代で、手描きでは間に合わないという事情もあったのでしょう、この時期に手描きから一気にシルクスクリーンへと変わっていきました」
手描きで紋を入れる承龍さん(写真:腰塚光晃)
独立して5年は紋だけを仕事にしていたものの、それだけでは厳しい。そうした状況を打破するために、1985年、承龍さんは上繪師の先輩と着物の総合加工の会社を起業します。15年間、白生地から仕立てまで行ない、2000年には再度、独立することになりました。
承龍「もう一度ひとりでやることにしたのですが、2003年に仕事の量が一気に増えたのです。そこで当時、大学生だった息子の耀次にも手伝ってもらうことにしました。そこからずっと一緒にやっていますね(笑)」
耀次さんと二人三脚で着物の加工をする日々のなかで、承龍さんの気持ちにも少しずつ変化が現れます。
承龍「上繪師って着物に描いたら終わりなんです。裏方の仕事なので誰に知られるわけでもなく、誰が描いた紋かも相手には伝わらない。描いた家紋が作品として残るわけでもありません。ましてシルクスクリーンで家紋を入れるのが主流になると、誰が描いてもさほど変わらないものになってしまった。縮小する業界の中で仕事を取り合うようなこともしたくない……それなら自分で何かできることを考えようと思って始めたのがデザインでした」
このとき、承龍さんは50歳。着物の総合加工をしつつ、デザインや創作活動をスタートしました。
二代目・波戸場源さんによる作品(1964)
承龍「僕の父(二代目)は、東京オリンピックのあった1964年に、色紙に家紋を描いて額装した作品を三越で発表したんですね。着物に描く家紋は男性用でも38mmくらい、原稿として描く場合も60mm程度なのですが、それを5寸(約190mm)で描いて額装した。これは紋章上繪師としては初の試みで、家紋のデザイン性、アート性を訴えるという点で画期的でした。
僕もそうした創作活動をできないかということを考えていくなかで、最初に取り組んだのが家紋と江戸小紋を組み合わせた『KAMON×KOMON』という作品です。それから3年経ち、いまの稲荷町に引っ越したのを機に、“デザイン一本でやっていきたい”と、家族にそう伝えました」
承龍さんのこの決断は、いまにつながる大転機となります。
時は2010年、奇しくも1910年の京源創業から100年後のことでした。
波戸場承龍「KAMON×KOMON」より「初夢」(2007)
Illustratorが描く線の美しさに魅了される
デザインへの完全転向を決めた2010年、承龍さんは企業から“紋のようなロゴを作ってほしい”という相談を受けます。ネックだったのは納品形態としてIllustratorデータを指定されていたことです。
耀次「父からデザインするからデータにしてくれと頼まれたのですが、僕はそれまでIllustratorはまったく触ったことがありませんでした。まずは体験版を入れて、分厚い本を買って、手探りで使い始めたのですが、結局、かたちにするのに1ヶ月近くかかってしまいましたが、なんとか納品できたんですね。
でも、そのなかで気づいたのは、拡大・縮小してもきれいな線のまま劣化しないというベクターデータの特性は、家紋と相性いいんじゃないか、ということでした」
承龍「Illustratorで描かれた紋を見たとき、本当に美しいと思いました。それまでパソコンで見る家紋といえば、シルクスクリーン用に原画をスキャンしたビットマップデータくらいでしたから。どんなに拡大してもシャープな線は本当に衝撃的でしたね。ビジネスとしてIllustratorを導入しようと決断できたのはあの美しさがあったからこそです」
Illustratorで描かれた家紋
当初は承龍さんが手描きでデザインする、耀次さんがデータ化するという役割分担でしたが、耀次さんがIllustratorで家紋を描く様子を眺めるうちに、承龍さんのなかにも“自分もIllustratorで家紋を描いてみたい”という想いが芽生えはじめます。
耀次「“自分でも描いてみたい”と言われたものの、僕も使い始めたばかりで教えられるほど詳しくありません。ひとまずベジェ曲線を教えてみたものの、父は思うようには曲線が描けなくて、『もう、いいや。データは作らない。耀次にまかせる!』となかば諦めかけていました。ただ、最後に父がポツリと『正円をかんたんに描けるツールはないの?』と聞いてきたんです。『それなら楕円形ツールで描けるよ』と伝えたら、『これだよ、これを待っていたんだ』と目の色が変わったんです」
家紋の構成要素は「円」と「線」
さまざまな家紋が掲載された「紋帳」
Illustratorで正円が描ける。ただそれだけのことがなぜ、承龍さんの心に響いたのか。それには家紋の描きかたを知る必要があります。
承龍「家紋は非常に多くの種類がありますが、基本的にすべてのかたちは円と線で描くことができます。使う道具は、上繪筆、溝引き定規、ガラス棒と円を描くための竹製のコンパスだけです。この竹製のコンパスは『分廻し』といって上繪筆を取り付けて使います。
上繪師によってはフリーハンドで描く人もいますが、僕の場合、すべての紋をこの道具を使って円と線だけで描いています」
左から上繪筆、ガラス棒、溝引き定規、分廻し
一方、耀次さんは家紋をデータ化することはあっても、それまで手で家紋を描いたことはありませんでした。トレースはペンツールで行なっていたため、円から曲線を取り出して家紋を描くというアプローチではなかったわけです。
かたちとしての家紋を見るとき、その曲線のひとつひとつが円弧の一部であると気づくことはできるでしょうか。しかし、家紋を描き続けてきた承龍さんは、家紋を構成する曲線のなかに、円を見出すことができるのです。
“円と線さえ描ければ、自分もIllustratorで紋が描ける”
承龍さんが定規と分廻しで積み重ねた経験とノウハウは、Illustratorというデジタルツールに変わってもなお、そのまま活かすことができました。
Illustratorで作品制作をする承龍さん
承龍「どこに中心を置いて、どのくらい広げれば、描きたい曲線になるということは体に染みついているんです。道具がIllustratorに変わっても、その感覚が変わることはありませんでした。
たとえば鶴の羽根はひとつの円をある一点を中心に回転させて描きますが、このとき、ひとつずつ角度を計算していきます。片喰紋(前掲・波戸場源さんによる作品参照)も1/6を描いたら反転して葉っぱを作り、120°ずつ回転すれば完成する。こうした作業はデジタルとの相性がいいし、なによりおもしろい。どんどんのめり込んでいくんですよ。円をどう組み合わせたらどういうラインが描けるか、自分なりの法則が次々に見つかります。円だけで描くというルールなら、誰にも負けない自信がありますね(笑)」
正円を用いて曲線を描き、繋ぎ合わせることで紋を成す。
承龍さんのなかで手描きの技とIllustratorが合致したときに生まれたもの。それこそが「紋曼荼羅 MON-MANDALA」だったのです。
この作品が完成したのはIllustratorを使い始めた翌年、2011年のことでした。
波戸場承龍「紋曼荼羅」(2011)/人間国宝・岩野市兵衛さんの和紙に染め摺りされた作品
波戸場承龍「紋曼荼羅」より「伊勢海老の丸」
家紋×デジタルツールで広がるクリエイティブ
デジタルツールの導入によって変わったのは承龍さんだけではありません。耀次さんもまたデザインのおもしろさに気づき、クリエイティブの可能性を広げていきました。
耀次「iMacと製品版のIllustratorを導入してみたら、不思議なくらいMacにのめり込んでしまって(笑)。webサイトも作ろう、デジタル一眼レフカメラを買って写真を撮ろう、その写真を加工するためにAdobe Photoshopも使ってみようと、やりたいことが一気に増えたんです。父が“映像にしてみたい”といえば、動画にも取り組みました。
正直言うと、父が『KAMON×KOMON』のような作品を作っていたとき、僕はそうした活動にまったく興味を持てなかったんです。否定的な意味ではなく、デザインやアートという分野そのものに感性のプラグが接続されていなかった。
でも、2010年にMacとIllustratorに出会い、自分でもデザインをするようになったとき、初めてそのプラグがつながった気がしました。“ああ、デザインってこんなにおもしろいんだ”と、自分ごととして理解ができた。そのときからデザイン・アートに対する考えかたは180°変わり、父の考えていること、話すこともわかるようになったんです」
Illustratorから始まりPhotoshop、Premiere Proまで使いこなす耀次さん
Illustratorという共通言語ができたことで、ふたりの間のコミュニケーションも円滑になり、Adobe Creative Cloud(Adobe CC)に切り替えた後、その活動フィールドは一層の広がりを見せます。
耀次「もともとやろうと思っていなかったことすら、自分たちでできるかもしれないと思わせてくれるのは、Adobe CCなら、IllustratorやPhotoshopだけでなく、映像を作るAdobe Premiere Pro、3Dシミュレーションができるツールなどがいつでも使えるからなんです。
僕たちはできるものなら自分たちで全部やりたいと思っています。たとえ、それまでやったことがないことでも、アプリケーションを入れてまずかたちにしてみる。それができたら、さらに調べる……Illustratorだけでなく、Photoshop、Premiere Proも、この繰り返しで習得していきました。
僕たちがいま、紋のデザインだけでなく、パッケージやサイン等、幅広いデザインを受けられるのは、Adobe CCというツールがあったからこそです」
現在は、ふたりともAdobe CC グループ版に契約。個人版では100GBしかないストレージが、1TBになったことでデータの管理や共有もラクになったと言います。
デザインを担当した「NOHGA HOTEL UENO TOKYO」のパネル、ドライヤーバッグ、カードキー
承龍さんがIllustratorで描いた紋やグラフィックを、耀次さんはツールを駆使して、さまざまなフィールドに展開するというコンビネーションはいまなお進化中。耀次さんはIllustratorのようなデザインアプリケーションだけでなく、Adobe FontsやAdobe Stockも活用しています。
耀次「長く書道をやっていたこともあり、文字に対する思い入れが強いんですよね。デザインするときも、フォントの選択にはかなり時間をかけています。イメージに合うフォントを探すとき、Adobe Fontsは本当に便利なんです。
ふたりともデザインの専門教育を受けたわけではありませんが、空間に対する間の取りかたや、好きな色、素材、質感についてはふたりのなかで共有できる感性があると思っています」
Illustratorを冊子のレイアウトにも活用。デザインのフィールドをさらに広げている
企業から依頼を受けたデザインワーク 左:眞松庵/中・右:NIESSING
京源にいま、ハイブランドやホテル等、品質と格式を重んじる企業からも依頼が絶えないのは、ツールの力だけでなく、ふたりだけが持つこの感性があってこそ。そして、そうした感性が培われたことは、家紋のデザインがそのかたち以上に、広大な世界観を内包していることの証左とも言えるのではないでしょうか。
耀次「もともとは“オリジナルの家紋をデザインします”というかたちで始めたデザインでしたが、依頼の中で“こうしたらどうでしょう?”と提案をしていくうちに、自分たちのなかでもできることが広がり、依頼される内容も幅広いものになっていきました。
“家紋を美しいかたちで残していきたい”という父の想いは、手描きからデジタルになったことでより多くの人を巻き込めるようになりましたし、“こういうことができたら”ということが次々と実現している。それがいま一番、おもしろいですね」
紋帳にある、円を分割する方法について書かれたページ
家紋の描きかたと抜群の相性を見せるIllustratorですが、デジタルツールの進化は誰もが同じようにできてしまう可能性も秘めています。そうしたことに不安はないのでしょうか。
承龍「たとえば、紋帳には『紋の割りかた』という紋を分割していく方法についてまとめたページがあります。ただ、この通りに描いても格好のいい紋にはならない。いくらルールがあっても、最後は描く人の感覚でやるしかないんです。
Illustratorで紋を描くときも同じです。いくら機能が進化しても、最後はそのかたちだけでなく、線のひとつひとつの太さ、重なり、つながり、先端処理まで理想のかたちを追求していく。そうした積み重ねが個性になるのだと思います」
京源
1910年、日本に古くから伝わる「家紋」を着物に描く前の工程を担う職人・紋糊屋として、初代 波戸場源次が「京源」を創業。その後、二代目の波戸場源が着物に家紋を手で描く職人・紋章上繪師となり、三代目 波戸場承龍、息子の耀次へとその技術を受け継ぐ。
2010年、京源三代目 波戸場承龍・耀次親子が工房「誂処 京源」を立ち上げ、昔ながらの手描きの手法にデジタル技術を導入。家紋による新たな表現を作り出すデザイン会社へと転向。
日本の伝統的な意匠と現代感覚を融合させ、オリジナル家紋をはじめ企業やブランドへのデザイン提供、アート作品、服飾雑貨、パッケージデザイン等、ジャンルにとらわれず、さまざまなモノ・コトに家紋の技術、デザインを展開している。
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