連載 第四回 「誰一人取り残さないデジタル社会に向けて」

ノートパソコンを使っている男性
中程度の精度で自動的に生成された説明

今回は、テクノロジーを活用して特別支援教育に第一線で取り組んでいらっしゃる東京大学の近藤武夫先生にご寄稿いただきました。誰一人取り残さないデジタル社会の取り組みには、教育の分野は大変重要な役割を担っています。GIGAスクール構想で大変注目されている今だからこそ、包摂的なデジタル社会を築いていくための教育バリアフリーへの取り組みをご紹介いただきました。ぜひご覧ください。

第4回
教育のバリアフリーとデジタル社会

近藤武夫 氏
東京大学先端科学技術研究センター准教授

障害のある子どもたちにとって、タブレットなどのデジタルツールは学習上不可欠といっていいほど重要なものです。いわゆる健常な児童生徒が参加することを前提としてつくられてきた教育環境に存在するバリアを乗り越えて、学びの機会と可能性を広げていくためにデジタルツールが必要とされています。いくつか例を出してみましょう。

頸髄損傷や脳性まひにより、四肢をほとんど動かせなかったとしても、体のどこか一部でも随意に動かすことができれば、そこにその動きを拾うことができるスイッチを取り付けて、スイッチインターフェースを使ってマウスの動きやクリック動作に置き換えたり、カメラで視線の動きを追尾してマウスの動きに変換したり、ジャイロセンサーで頭のわずかな動きを認識し、画面上に表示させたスクリーン・キーボードを使って文字入力するなど、自由にコンピューターを操作することができます。また、難病があってベッドを離れることが難しくても、遠隔でカメラやロボットを操作して、学校の授業や職場など、いろいろな場所にリモート参加できます。特にコロナ禍がそれを推し進めたところがありますが、こうした例はもはや何も珍しいことではなくなりました。スマートスピーカーとスマートプラグ、赤外線コントローラーを組み合わせて、音声だけで家電を操作することも、簡単にできるようになりました。

目が見えない・見えにくい子どもたちも、スマホやPCのスクリーン・リーダー機能(画面上のさまざまな情報を全て音声に変換して読み上げてくれる機能)で、デジタル書籍やWebページを音声で読み上げて読んだり、メールや文書を読み書きすることができます。拡大鏡の代わりに、スマホやタブレットのカメラで写した映像を、極端に大きな倍率にまで拡大したり、写っている画像を白黒反転させたり、本人の色覚特性(色覚異常とも言われ、例えばそのうち1型2色覚では赤系の色と他のいくつかの色が判別しにくい、等の特性がある)に合わせて画面のカラーを調整するなどの機能を使って、印刷物の内容を読む人もいます。画像や動画のAIによる認識は急速な発展を見せていて、目の前の情景にカメラを向ければ、どんな人が何をしている様子かを、リアルタイムに音声で説明してくれる機能も実用化し始めています(例:Microsoft社SeeingAIなど)。

耳が聞こえない・聞こえにくい子どもたちが、目の前の人が話している音声をAIにリアルタイムに音声認識させ、文字としてタブレットやスマホの画面に字幕として表示させて、それを読むことで相手とコミュニケーションを取ることは、もはやごく一般的な風景となりました。まだ小中学校や高校ではあまり広がっていませんが、大学の講義では、聞こえない・聞こえにくい障害のある学生が他の学生に混じって、タブレットでリアルタイム字幕(「文字通訳」と呼ばれ、大学が学生支援として聴覚障害のある学生への合理的配慮として提供する)を付けて一緒に講義を受けることは、ごく一般的なこととなっています。

他にも、子どもたちの中には、一般的な知能検査(例えば地域の教育相談等でもよく行われるWISC-IVなど)では知能面に大きな障害が見当たらず、本人と話すと非常に流暢に受け答えができていても、印刷された文字を目で見て読むことが極端に困難だったり、鉛筆で文字を書くことだけが極端に難しい子どもがいます。こうした読み書きの特異的な困難さは、学習障害(Learning Disabilitiesの頭文字を取って「LD」とも呼ばれる・・・医学的には「限局性学習症」という名称が使われることがある)と呼ばれます。詳しくは後述しますが、通常の学級に通う児童生徒の中に、かなりの数、存在していると言われています。そうした子どもたちの中にも、紙と鉛筆では勉強することが困難でも、タブレットを使い、キーボード入力と拡大機能や音声読み上げ機能などを使えば、流暢に読み書きができる子どもたちが多数存在しています。

注意欠如多動症(Attention Deficit Hyperactivity Disorder, ADHD)といって、周囲の刺激に極端に注意を乱されやすかったり、逆に過度に集中し過ぎてしまう特性があり、学校での集団での学習や、職場での規律や締め切りを求められる環境や慣行に不適応を示す人もいます。困難さを軽減する方法として、ノイズキャンセリング機能のあるヘッドフォンで外乱刺激となるノイズを低減する工夫をしている人もいます。また、スマートウォッチやスマートスピーカー、スマホを使い、予定やタスクのリマインドを自分に送るように設定しておくことで、予定の管理やキャッチアップに大きな労力がかかったり、過集中で長時間、体と脳を酷使し過ぎてしまうことを避けている人もいます。達成したいことに心のエネルギーを振り向けて、スムーズに実現する手助けを、周囲の人的な支援からだけでなく、テクノロジーからも得ることができるようになりつつあります。

近年のアクセシビリティ機能の発展によって、ほとんどのOSが標準機能として、上記に挙げたような、優れたアクセシビリティ機能を備えるようになっています。IoT機器の発展で、アクセシビリティ機能にとどまらない、さまざまなツールも入手が簡単になりました。そこに多様なWebサービスを組み合わせて、情報の入手・伝達・発信・周囲の環境の制御が、自由にできる時代になりました。デジタル社会の進展により、ツールを上手に活用できれば、障害による身体と認知の特性から生じていた制約を超えて、障害のある子どもたちが、学んだり、働いたり、地域生活を楽しんだり、持てる強みや特性を生かしてクリエイティビティを発揮したりと、社会参加の可能性が広がっています。実はこうしたテクノロジーの活用のアイデアそのものは1990年台から想像されていたことも多くあります。日本でも2010年には文部科学省が「教育の情報化の手引き(https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyouhou/1259413.htm)」を公表し、第9章ではこれらのことと同様のアイデアを提案していました。しかし、特にここ10年で、タブレットとインターネット、IoTやAIの登場により、ただのお題目でもそれらしいモックアップでもなく、本当に役立つものとなっています。

図1. 「教育の情報化の手引き(平成22年版)」より引用

他にも、テクノロジー活用の方法は枚挙にいとまがありません。筆者らが運営するDO-IT Japan((https://doit-japan.org/) 障害のある児童生徒がテクノロジーを活用して持てる力を生かし、大学進学やその後の就労を通じた社会活躍を目指すプロジェクト)では、参加する児童生徒が読み書きやコンピューターアクセスを支援する機器・ソフトウェアを使って学んでいる様子の動画を公開しています。関心のある方はWebサイト(https://doit-japan.org/2020/06/12/doit-tech/)を見ていただければ幸いです。

さて、一方で、技術的にはできるようになっても、実際に使えるかどうかという観点で言えば、まだまだ多くの社会的障壁が残されています。「技術的に可能であること」が、「本人が選び取れる権利」に変わるためには、社会制度としてテクノロジーへのアクセシビリティが保障される必要があります。そこで本稿では、特に教育の側面に注目して、どこに社会的障壁が残されていて、これから何が変わろうとしているのかを、筆者自身が関わっている取り組みを例に論じます。

テクノロジーにより「できる」ことと、学校の慣行(教室、勉強や宿題、試験の場面)で「使用が認められること」は、全くの別問題です。前節で挙げたLDやADHDの例からもわかるように、子どもたちの学習に関連する能力の特性には、非常に広範な多様性があります。また、多数派の学び方では学べない児童生徒(「障害のある児童生徒」と呼ばれることがある)が抱える「困難さ」に過度に注目してしまうと、その児童生徒の「強み」を見落としてしまいます。結果として、子どもたちひとりひとりが大きな社会活躍の可能性を秘めていても、多数派のことだけを想定していて、ニーズがある児童生徒への個別最適化が難しい伝統的な学びの環境は、時に学びへの参加機会と本人の自尊心を失わせ、スポイルしてしまう結果となります。テクノロジーはそんな障壁を乗り越えるためのツールとしてこそ、使われていくべきものです。

現在、日本の教育は、インクルーシブ教育システムへの移行と、GIGAスクールなどICTの活用を軸として、「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実(https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/senseiouen/mext_01317.html)を目指した変革が始まっています。過去の伝統的な教育環境・慣行では、子どもたちの方が、自らのありようを変えて、目の前の教育環境に最適化することが求められてきました。しかし今後、そこから逆転して、教育環境や指導方法の方が、個々の子どものありように合わせて最適化することが必要になります。今、教育のカルチャーが大きく変わろうとしているのです。

子どもたちの学び方について、幅の広い多様性を考慮した学習環境を整え、指導方法を変更・調整していく上で、学校教育における特別支援教育体制の充実は欠かせません。米国や英国など、インクルーシブ教育を早期から進めてきた教育制度のある国では、障害のある児童生徒への支援と、日々の学習に困難を感じている児童生徒の支援は、その間が曖昧で境目がないものとなっています。そもそも、障害は人間であれば誰にでも存在しうる自然な特性の一つであり、学校教育がそこに配慮して学びの可能性を広げることは、全く「特別なこと」ではないと考えられています。しかし、日本でのインクルーシブ教育は、本格的には2016年から始まったもので歴史が浅く、特に、通常の学級での支援には、極端な不足があります。以下に統計からその状況を見てみます。

日本では、障害のある児童生徒数は全児童生徒の約3.9%、約58万人と報告されています(文科省「令和2年度特別支援教育資料」)。少子高齢化により児童生徒数が急速に減少する中でも、特別支援教育を受ける児童生徒数は急速に増加を続けています。しかしながら、日本で特別支援教育を受ける児童生徒の比率は、他国と比べると多いとは言えません。例えば米国では、特別支援教育を受ける児童生徒は、全児童生徒の約14%(米国国立教育統計センター, 2021)、約730万人に上ります。

では日本の学校では特別支援教育ニーズのある児童生徒数が米国と比較して少ないのかというと、決してそうではありません。2012年に行われた文科省の調査「通常の学級に在籍する発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査」では、義務教育段階の「通常の学級(つまり、特別支援学級や特別支援学校ではない)」に所属する発達障害(学習障害、ADHD、自閉スペクトラム症)の疑いのある児童生徒数は、全体の6.5%と推計されました。現在の児童生徒数に照らせば約63万人です。つまりどのクラスにも1〜2名は、発達障害がある子どもたちが在籍している計算になります。

一方で、前出の特別支援教育資料によれば、発達障害があり特別支援教育(通級指導)を受ける義務教育段階の児童生徒数は、全体の0.74%、約7.2万人に止まっています。加えて、中等教育段階に注目すると、発達障害に関する支援ニーズのある生徒数の推計と実際に支援を受ける生徒の差異はさらに顕著となります。前出の2012年の文科省調査では、中学校では4%の児童生徒に、発達障害の可能性があることを示唆しています。しかし、発達障害で通級指導を受けているのは約0.38%、約1.3万人です。高校になると0.02%、623人と、本当にごく一部の発達障害のある高校生しか、通級指導を受けられていません。高校での通級指導が極端に少ないのは、まだ高校通級自体が平成30年度から始まったばかりで、通級のある高校自体が非常に限られているためですが、いずれにせよ、児童生徒側にニーズがあっても、そこに対応できていない学校教育体制があるのは明らかです。

ちなみに米国の統計では、特別支援教育を受けている児童生徒が730万人おり、その約33%、つまり240万人を、学習障害(Specific Learning Disabilities)が占めています。学習障害は、特に先進国において、全ての障害種別の中で発生率が特に高いと言われる障害(高発生障害)に含まれています。また、日本には、米国と違い、児童生徒の学習に遅れがあっても、障害に関するアセスメントを行なって、学習の遅れの背景に学習障害などの特性が隠れていないかを発見する法的な義務が学校側にありません。そのため、障害から来るニーズのある児童生徒が教室にいても、非常に顕著な不適応行動や極端な学習の遅れがなく、大人しく机に座って授業を受けていれば、発見されないままに卒業まで過ごすケースが少なくないのではないでしょうか。私は、日本では障害の発見義務が学校にないという制度の違いも、日本で特別支援教育を受けている児童生徒数が少ない理由の一つだと考えています。

関連して、いくつかの興味深い事実があります。1つの目の事実は、障害のある大学生についてです。全大学生に対して障害のある学生が占める割合は、米国では19.45%(約375万人)、英国では17.3%(約33万人)。一方で日本では、1.09%(約3.5万人)と極端に少ない状況があります。また、米国でも英国でも、障害のある学生の多数派は学習障害やADHD、および精神疾患が占めますが、日本での発達障害のある大学生は7,654人(うち学習障害222人、ADHDで2,116人、自閉スペクトラム症3,951人、重複1,365人)で、米国や英国と比較すると、まさに「桁違いに少ない」状況があります。おそらく日本においては、中等教育(中学校・高校)の通常の学級での特別支援教育が極めて手薄であるため、自分に特別支援教育ニーズがあることを知らなかったり、学校に対してニーズをオープンにして支援を受けながら学び、進学を目指す学生が極端に少ないのだと思われます。

表1. 日米英の高等教育機関での障害学生数と全学生に占める比率の差異.
SOURCE: 日本: 日本学生支援機構,(2020),アメリカ: U.S. Department of Education, National Center for Education Statistics. (2019). Digest of Education Statistics, 2017 (2018-070), Chapter 3.,イギリス: House of Commons BRIEFING PAPER: Support for disabled students in higher education in England. Number 8716, 2 March 2020.

2つ目の事実は、不登校の状態にある児童生徒についてです。文科省による学校を対象とした調査によれば、令和2年度では小学生の1.0%、中学生の4.2%が不登校(「30日以上欠席している生徒」)であり、過去8年間連続で増加を続けていることが報告されています(https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1302902.htm)。さらに、2018年に行われた日本財団の「不登校傾向にある子どもの実態調査(https://www.nippon-foundation.or.jp/who/news/information/2018/20181212-6917.html)」では、対象を学校ではなく中学生本人(既卒生含む)として調査を行いました。その結果、文科省定義の不登校に加えて、さらに不登校傾向(30日未満の欠席や、保健室登校、授業には出ていても学習不参加、学校に行くことが辛いと感じている)を加えると、中学生では13.3%の生徒が不登校傾向にあることを示しました。また同調査では、中学校に行きたくない理由について、身体的症状(朝起きられない、体調が悪くなる、疲れるなど)以外の要因では「授業がよくわからない」、「良い成績がとれない」、「テストを受けたくない」など、学習面での理由がみられたことが報告されています。令和2年度の文科省調査で、中学校での不登校は4.2%ですが、前出の2012年の文科省の調査では、中学生の4%に発達障害の疑いがある可能性を示唆していました。これは不登校状態にある児童生徒の中に、学びの特別支援ニーズのある児童生徒の存在を示唆する符号です。

日本では、障害についてのスティグマ(社会的烙印)が大きかったり、学校側に学習障害などの特性による学習困難がないかを発見する義務がなかったり、同調と和を重んじる文化から一人だけ他者と異なる学び方をすることを教師も児童生徒自身も敬遠したりといった文脈があります。このことから私は、日本では医学的診断を得る状況にまではなっていない、特異・不得意の極端な凸凹があったり、グレーゾーンではあるが発達障害に類する特性のある児童生徒が、個別最適な学びの機会を通常の学級では得られずに、学習に困難さを感じたり、もっと言えば学習空白のような状態になっていたり、不登校状態になっている事例が多いだろうと考えています。原因は、児童生徒一人一人の個別最適化された学びを支えていける体制が、日本の学校社会全体にこれまで作られてこなかったことにあります。これからの新しい教育のカルチャー変革に、私は大きな期待を寄せています。

筆者らが2007年から継続している、前出のDO-IT Japan(https://doit-japan.org/)に参加する児童生徒では、大学進学を希望して学ぶ中で、中高で思うように配慮を得られず苦慮してきた人たちが多数派です。ただ、プロジェクトの開始初期よりも、大きく変わった社会的状況があります。それは、障害者差別解消法(2016)の成立です。この法は、「差別禁止アプローチ」と呼ばれる考え方で、学校に対して、障害のある児童生徒への不当な差別的取り扱いを禁止し、児童生徒の状況に応じた個別の合理的配慮の提供を義務化(公立学校に対しては義務化、私立学校に対しては今後3年以内に義務化)しました。他にも同法は、合理的配慮を個々に毎回考えるのではなく、そうしたニーズのある児童生徒の参加をあらかじめ見越して、学校の環境の整備を進めることも求めています。

不当な差別的取り扱いとは、正当な理由なく、障害を理由として入学を断ったり、または学校内で他の児童生徒が参加できていることへの参加を認めないことなどを意味します。また、合理的配慮とは、学校が児童生徒から「社会的障壁(障害のある人の参加を前提としていない環境・慣行・人々の態度などから生じる、障害のある人の社会参加を阻む障壁)」の解消を求められたときに、過重な負担でない範囲で、環境や慣行の変更や調整を実施することを意味しています。

このような教育における障害のある児童生徒・学生への差別禁止アプローチは、米国では1970年台から、英国では1990年台から法制度化されています。一方で、日本では2016年からと後発ですが、この法ができたことで、教室での配慮だけではなく、高校入試や大学入試、資格試験など、競争的な場面にも、他の受験生と異なる参加方法が法的に認められる道ができました。個々の状況で、それが合理的であると関係者が合意形成できた場合に限られますが、代読、代筆、拡大、キーボード入力、別室受験、時間延長など、個別の変更・調整がなされることが認められるようになりました。

競争的場面での配慮が認められるようになったことは、障害者への優しさや善意で配慮がなされるのではなく、障害の有無に関わらず、イコール・アクセスを保障しようとする理念の現れだと言えます。他の国では、合理的配慮を指して「level the playing field(競争の土俵を公平になるように整える行為)」という言い回しがよく使われます。テクノロジー利用についても、それは「ずるい」ことではなく、公平性を保つための方法の一つであるという捉え方に立っています。

障害のある児童生徒・学生が、例えば一人だけ何らかのテクノロジー利用を認められて授業や試験に参加するなど、他の生徒と異なる形で参加することを積極的に認める法的な背景ができたことには、大きな意味があります。まだまだ地域や学校による理解の格差は非常に大きいのですが、合理的配慮の事例は確実に生まれ、社会的関心も高まっていることは間違いありません。

合理的配慮の義務化により、「環境の整備」についても意識が高まっています。合理的配慮とは、ある障害のある個人が社会的障壁に出会ったときに、その状況で生じている社会的障壁を解消しようとする個別の取り組みで、関係者である学校や事業者が行う義務または努力義務のあることです。昔は障害のある児童生徒は、特別支援学級や特別支援学校にのみ在籍していたかもしれませんが、現在は教育制度がインクルーシブ教育に転換していますので、どの教室にも合理的配慮ニーズのある児童生徒がいるはずです。学校はそのことを前提として、教育環境を考えておく必要があります。とすれば、最初からさまざまなニーズのある児童生徒が使うことを想定した教材、指導方法、教室環境を用意しておいた方が、個別の合理的配慮の必要性も低くなり、教師も生徒もお互いに負担が下がります。これが「環境の整備(初等中等教育では、「基礎的環境の整備」とも呼ばれる)」を学校が行おうとするモチベーションを支えています。合理的配慮が義務化または努力義務化されたことで、連動して学校の環境整備の意識も高まってきた、ということです。

指導法や教室環境を、あらかじめ多様な教育ニーズのある児童生徒のために整備しておく、という考え方については、1990年代から米国CASTが提唱している「学びのユニバーサルデザイン(Universal Design for Learning, UDL)」という考え方がよく知られています。近年の日本の教育界でも広まりつつある考え方です。幅広く多様な特性(知覚や認知、行動・運動や思考のスタイル、取り組みの動機や好み)がある児童生徒・学生が参加することを前提として学びをデザインし、工夫することで、すべての人が学びのエキスパートとなれるよう育てることを目指す概念です(https://udlguidelines.cast.org/more/downloads には日本語版のガイドラインも公開されています)。

図2. UDLガイドライン Version 2.2(日本語版)より引用.

UDLでは、多様なニーズに対して学びをカスタマイズすることができる点で、テクノロジーの重要性を強調しています(もちろん、テクノロジーだけが唯一の方法ではないこともまた、強調しています)。教室で当たり前に使われる教科書や教材についても、同じようにカスタマイズの必要性があります。ただ、従来の紙ベースの教科書や教材では、カスタマイズの範囲に限界があります。

教科書ひとつとっても、視覚障害があり印刷物に書かれたものが見えない/見えにくい生徒や、学習障害がある生徒では、文字を視覚的に認識して読むことが難しかったり、ページ内の情報があちこちに散逸していて構造化されていない場合、情報を把握することが難しくなります。肢体不自由があり、ページめくりをすることが難しい生徒も、紙の教科書には学びづらさを感じます。文字や挿絵を拡大したい、文字部分は音声で読み上げてほしい、読むべき部分がハイライトされてほしい、複雑なレイアウトではなくごくシンプルなレイアウトに変更してほしい、点字で触って読める形にしてほしい、等々、個々のニーズに対応してカスタマイズできる教科書が必要です。

現在、令和6年度に向けて、学習者用デジタル教科書の準備が進んでいます。当然、印刷物を使って学ぶことが難しい児童生徒も利用することを考えた機能が備わっているものがあります。

図3. 東京書籍・学習者用デジタル教科書の例
https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/text/chu/ict/dtxgakushu.html より引用)

それらの機能は、「音声教材」と通称される、特別支援のためにつくられた様々なデジタル教科書の成果を取り込んで作られていると言って良いでしょう。ここでは詳述しませんが、現在、国内では6つの団体が音声教材を製作していて、その製作を文科省がバックアップしています。それぞれの音声教材の特徴や活用法については、文科省のウェブサイトに動画での紹介を含めた詳しい説明(https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/1374019.htm)がありますので、ぜひそちらをご覧ください。

学習者用デジタル教科書の特別支援教育に対応した機能は、それだけで全ての障害種別に対応できるわけではありませんが(読み上げることができない場所があったり、挿絵や図表に代替テキストによる説明がなかったり、点字のサポートがなかったりと制限は残されています)、近い将来、誰もが使うことになる教科書に、制限があるとは言っても、特別支援教育対応の機能が標準機能として備わっている状況になります。そのことで学びの可能性が広げることができる児童生徒は、ここまで述べてきた統計的な背景からもわかるように、膨大な人数になるだろうと、私は大きな期待を寄せています。

ただ、一方で、現在の環境整備の状況は、「ほんの教科書だけのアクセシビリティ対応が進みつつある状況」とも言い換えることができます。副教材はどうでしょうか。一般の書籍、試験問題や解答用紙はどうでしょうか。もちろん、完璧にアクセシビリティが整えられることは物理的に不可能です。では、子どもたちが読みたいと言った書籍や資料のアクセシビリティ確保をサポートする体制は、学校や地域にあるでしょうか。アクセシビリティの問題を超え、その先にある個別最適化された学びをデザインし、子どもたちが学びのエキスパートへ至ることをサポートできる環境や文化が、多くの学校に広がっている状況にあると言えるでしょうか。

2021年5月に、障害者差別解消法が改正され、私立学校や民間事業者から障害者への合理的配慮の提供について、これまで努力義務にとどまっていたものが、義務へと変わりました。改正法の施行はまだ数年先ですが、合理的配慮の提供義務が広がることで、「最初からユニバーサルザインとなるように工夫しておいた方が効率が良い」と考えるように、世の中の意識は変わっていくでしょう。米国や英国、その他いくつかの国々の前例を見ていると、きっとそうなるとポジティブな予見ができますし、そうなるように私たちはチャレンジし続けていかねばなりません。

日本におけるLD研究の始まりを切り拓いてきたフロンティアである上野一彦氏(東京学芸大学名誉教授)は、近著(上野, 2021)において、教育行政上の発達障害、その典型例であるLDなどの障害状態は、障害のあるものとそうでないものとの中間的に位置する、いわば「中間的」かつ「架橋的」存在であると指摘しています。また、具体的かつ効果的な支援を考えるとき、何よりも必要なのは、その個のニーズであり、子ども自身が求める特異的なニーズであること、そしてその理解の背景に「learning differences(学びの相異)」,あるいは「learning diversity(学習の多様性) 」という新しい視点が必要であることを提起しています。

世界中で猛威を奮っている新型コロナは、いわゆる健常者と呼ばれていた人々にも社会参加の障壁をもたらし、その結果生まれた広範なリモート参加可能な社会は、これまで障害者と呼ばれていた人々に、教育や雇用において、不自由なく参加できる新しい機会を増やしました。コロナ禍で起こった無数の悲劇の中にあえて希望を見出すならば、障害があるとされてきた人、健常であるとされてきた人が、一部の社会的障壁をともに経験し、そして障壁を乗り越える経験を共有する場面が生まれたことや、障害・非障害の差異、「彼ら」と「私たち」の差異が曖昧になる場面が生まれたことだったとも言えるかもしれません。

GIGAスクールによる一人一台環境と、ICT活用を前提とした個別最適な学びを追求する教育の変化が今、始まろうとしています。その変化が、社会的障壁に阻まれて学びに参加することが難しかった全ての児童生徒が、可能性を大きく広げ、活躍し評価される社会を支えるものとなることを期待します。ICTの活用も、アクセシビリティやUDLの視点がなければ、差異を強調し、分断を生み出すツールにもなり得ることは、深く注意しておかねばなりません。今後の新しい教育環境が、障害と非障害の差異だけでなくその中間まで含めて、幅広く包摂した学びのデザインに基づくものとなることを、心から願っています。

[執筆者]

屋外にいる男性
自動的に生成された説明

近藤 武夫 氏(こんどう・たけお)

東京大学先端科学技術研究センター准教授。博士(心理学)。専門は特別支援教育(支援技術)。一般社団法人全国高等教育障害学生支援協議会業務執行理事、一般社団法人日本LD学会常任理事。文部科学省「視覚障害者等の読書環境の整備の推進に係る関係者協議会」、「障害者差別解消法に関する調査研究協力者会議」、「デジタル教科書の位置付けに関する検討会議」、「障がいのある学生の修学支援に関する検討会」の委員を務める。

参考文献:

1. 近藤武夫(2020)障害のある人の受験 中村高康 編 大学入試がわかる本 改革を議論するための基礎知識. 岩波書店. Pp.287-306.

2. 近藤武夫(2016)学校でのICT利用による読み書き支援 合理的配慮のための具体的な実践. 近藤武夫(編著),金子書房.

3. 中邑賢龍・近藤武夫(監修) (2019) 発達障害の子を育てる本 スマホ・タブレット活用編. 講談社.

4. 上野一彦(2021)新しい学習障害(LD)の像を求めて. そだちの科学. 第37号2021年10月号.

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