連載 第六回 「誰一人取り残さないデジタル社会に向けて」
今回は政府でモノづくり政策やクリエイティブ産業政策に携わり、デザインからイノベーションを創出するデザイン経営の普及・推進に取り組んでいます経済産業研究所の西垣淳子様にデザインの観点から誰一人取り残さないデジタル社会についてご寄稿いただきました。デジタル庁におきましてもCDO(チーフデザインオフィサー)が設置されましたことからも、デザインの観点からのデジタルトランスフォーメーションへのアプローチは重要な要素となっています。DXを進めるカギはデザインにあり。ぜひご一読ください。
第6回 デジタル社会とデザイン経営
西垣 淳子 氏
経済産業研究所 上席研究員
1. 「デザイン経営宣言」の発表
最近、デザインをビジネスの中核に取り込むデザイン経営~Design Driven Management~という言葉を耳にする機会が増えてきているのではないでしょうか?
大量生産を前提としたものの豊かさが飽和して、ユーザーの求めるニーズが心の豊かさへとシフトしてきている時代になってきています。こうした中で、何か自分に新しい価値を与えてくれるという期待をもたらすものであったり、共感できる価値を掲げる企業のブランドを選択することによって、自分たちのニーズやウォンツを充足するといった方向へと、消費者の嗜好が変化してきていると感じます。そして、これらの変化を十分にとらえている企業が伸びています。
こうしたユーザー中心の経営を進めていく「デザイン経営」が、欧米企業を中心に進められ、グローバルなイノベーションが進んでいるのではないか、という問題意識のもとで、2018年には、経済産業省と特許庁で一緒になって「デザイン経営宣言」を発表しました。私自身は、この「デザイン経営宣言」の作成の際には経済産業省の中から参画し、また、宣言発出後の2019年には特許庁に出向したことで、特許庁の中から、本宣言のフォローアップにかかわってきました。
2. 特許庁もデザイン経営を
特許庁ではデザイン経営宣言の発表を受けて、自らもユーザー視点にたった行政のあり方を試みることにし、特許庁内にデザイン統括責任者としてCDO(Chief Design Officer)を設置し、デザイン経営に取り組むプロジェクトチームを立ち上げました。
社会が複雑高度化している中で、ユーザーの視点に立って課題をとらえなおし、その課題に対していかに解決していくかという点においてデザイン思考を活用するという発想は、北欧を中心として行政にも取り入れられてきています。我が国においても、行政にデザイン思考を取り入れられないかという試みが始められてきている中で、特許庁でもCDOを中心に取り組んでみることを決意したのです。
最初の課題設定としては、特許庁に初めて特許や商標を出願申請した人達の立場に共感することでした。共感とは、相手の立場にたって想像力を働かせ、相手の感情や考え方を理解して、自分の行動にとらえなおすということです。特許庁に出願申請を行うと、最初の特許庁からのリアクションとして、特許では約8割、商標では約3割の人が「拒絶理由通知」という返答を受け取っています。一度目の出願でいきなり登録査定されるということは少なく、この「拒絶理由通知」という審査官からの返答をみて、審査官の持つ問題意識に即して、その後のやり取りをしながら、登録を目指すというのが慣れた出願人の態度だとされています。一方、初めて出願した人たちは、この通知をもらうことで、「拒絶」という言葉のもつ響きから、心がくじけてしまうということに気が付きました。そこで、拒絶理由通知の発出文書にQRコードを貼り付け、これからどう対応したらよいかについて説明するウェブサイトへと行きつきやすくすることで、拒絶理由通知を受け取った出願人に「あきらめないで」というメッセージを明確に伝えるようにしました。
次に、そもそも、世界的に見て、我が国では活用が低調な商標について、なぜ、ビジネスにとって有用な商標がなかなか活用されないのか、商標の価値についての普及啓発がうまくできていないのではないか、といった課題に向き合うことにしました。商標申請をしたことがない中小企業の方たちや、中小企業の経営支援をしている方たちに話を聞きに行くと、そもそも商標という制度が知られていないことに気が付きました。そして、商標を知らない方は特許庁のウェブサイトや説明会にはアプローチをしないため、そもそも、特許庁を知らない潜在的なユーザーへの普及啓発が全くできていないことが判明しました。そのため、まずは、商標について知ってもらうために、特許庁の広報の方策として初めて、バズ動画『商標拳』を作成しました。この動画は公表から二年ほどたちますが、YouTubeで168万回以上再生されるなど、今までの広報よりもはるかに多くの方に届いたと確信しております。この動画を配信することで、自分から特許庁にアプローチしてきてくれる企業に限定されず、多くの企業の方にこの動画を見てもらうことができるようになりました。また、中小企業支援機関の方も、自分で商標について説明することはしないまでも、支援先企業の方にこの動画のURLをお知らせし、関心を持たれた方に特許庁を紹介するといった形で協力してくださるようになりました。
今までの特許庁では、特許を申請してくるユーザーに対して迅速に質の高い審査をするという姿勢が中心でしたが、ユーザーをとらえなおし、また、ユーザーの視点にたって考えることで、デジタル技術を活用して、新たな取り組みが生まれました。このようにして、行政のあり方は少しずつ変わることができると思います。
また、デザイン経営というのは、新しい取り組みを生み出すだけではなく、既存の行政のあり方をユーザー視点にたって考え直す、特にデジタル社会が進展する中で、特許庁のデジタル化のあり方そのものをユーザーの利便性という観点からとらえなおすという動きにもつながりつつあります。
そのためのきっかけとなったのは、特許庁内で一年かけて議論したうえで作成したミッション・ビジョン・バリュー(MVV)です。
一人ひとりが創造力を発揮したくなる社会の実現を特許庁のミッションとして掲げることで、申請者だけでなく、国民一人一人をユーザーしてとらえるという方向を目指すということを職員全員が自分たちのミッションとしてとらえ始めました。
3. ユーザー視点にたったデジタル化
ユーザー視点にたった特許庁においては、デジタル化への取り組みも少しずつ変わり始めています。特許庁のデジタル化といえば、1990年に世界に先駆けて特許出願をデジタル化し、国内でも真っ先に行政手続きのデジタル化を進めたことなど、誇りうる点はたくさんありますが、最近では、このデジタル化にデザイン思考が取り入れられてきています。
2021年3月に公表した「特許庁における手続のデジタル化推進計画 ~ユーザーの利便性向上と業務最適化の両立に向けて~」においては、ユーザー目線でのデジタル化のあり方 とその実現に向けた方針が示されています。そこには下記のような文章が入ることになりました。
「なお、デジタル化は目的ではなく手段である。デジタル化実現にあたっては、利用者がサービスを受ける必要が生じた時の最初の行動から最後の行動まで(エンドツーエンド)の視野に立ち、紙で行っていた従来の手続きを単にオンライン申請・発送に置き換えるだけではなく、発送されたデータの利用も想定し、ユーザーが受ける便益を向上させる視点で適切な手法を選択することが不可欠である。」
こうした視点から、特許庁に提出される書類、特許庁から届けられる書類といったユーザーとのやり取りにかかる文書の全体像をとらえながら、デジタル化できていない文書についての検討に取り組み始めたところです。
一方で、特許庁がユーザー本位のデジタル手続きを進めていく中にも限界があることも事実です。一つには、特許庁のデジタル化が特別法によって進められてきたことに起因しています。文書によるやり取りを原則にしている『特許法』『意匠法』『商標法』等については、1990年に成立した『工業所有権に関する手続き等の特例に関する法律』によって、一つ一つの手続きを特例的にデジタル化してよいとすることで、デジタル化を進めてきました。その結果、この特例法に定められていない手続きは、いつまでたっても文書で行わざるを得ないため、ユーザーからみると、デジタル化した部分と紙の部分が混在してしまうことになります。
今般、デジタル臨時行政調査会(デジタル臨調)が立ち上がり、デジタル原則とそれに沿った規制改革がうたわれています。デジタル化の推進と、そのための法律改正を伴う構造改革は車の両輪のように一緒に進める必要があります。法律の枠内でのデジタル化では、ユーザー視点にたったデジタル化に限界があることは、特許庁が特例法によりデジタル化を進めた30年間の歩みからも明らかです。
さらに、2021年11月には、特許庁の保有する特許情報のAPIの提供を試行的に開始することを公表し、利用者が欲しいデータだけを選択して利用することができるようになりました。その発表文には、下記のような一文が含まれています。
「APIにより、ユーザーによる特許情報の柔軟な利用が可能となり、知的創造サイクルが活性化し、更なるイノベーションが促進されることが期待されます。」
ここでは、特許庁のMVVに立脚する姿勢が見て取れるようになりました。
行政情報のデータ公開によるユーザーの利便性の向上を通じ、知的創造サイクルの活性化を進めていくという目的から行われた画期的な取り組みだと思います。そして、国民一人一人をユーザーととらえる特許庁のデジタル化に向けた取り組みは、誰一人取り残されないデジタル社会の実現につながっていくことと期待しています。
4. 行政のデジタル化にむけて
本連載の第一回目では行政のDXに意識改革と組織改革が必要と提唱されています。そして、組織文化を変えていくための、大がかりな運動が、行政のデジタル化だという自覚が必要だと言っています。
デジタル化することだけを目的とするのではなく、ユーザーの視点にたったデジタル化をするためには、まさにデザイン経営に向けた意識改革と組織改革が必要だと考えています。そして、ユーザー視点にたった行政のあり方を模索するのは、各政策立案を担当する各省庁です。従来の供給サイドにたった行政から、需要者であるユーザー視点にたった行政へと変換するには、一人一人の意識改革に加え、抜本的な組織文化の変更が必要です。
行政のデジタル化は、デジタル庁だけが担うものではありません。デジタル臨調が進めるデジタル原則に基づく構造改革に政府全体が取り組んでいくという覚悟が今求められているのだと思います。
[執筆者]
西垣 淳子 氏(にしがき・あつこ)
東大法学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)に入省。デューク大学、シカゴ大学にて競争法、知財法等を中心に法学修士号取得。経済産業省にて、安全保障貿易管理課国際室長、ものづくり政策審議室長、クリエイティブ産業課長、中小企業庁小規模企業振興課長、特許庁審査業務部長等を歴任。デジタル化や「デザイン思考」を活用したビジネス展開を支援し、経済産業省/特許庁が発出した「デザイン経営宣言」(2018年9月)へと発展。現在は、研究所にて、デザイン組織の評価指標づくり等に取り組んでいる。
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