正円と直線が織りなす世界。Illustratorが支える高橋理子さんのクリエイティブ

高橋理子さん メインビジュアル

高橋理子(たかはしひろこ)さんは、“固定観念を覆し、思いを巡らせるきっかけを生み出す”をコンセプトに活動するアーティストです。
正円と直線。わずかふたつの構成要素から繰り広げられる高橋さんの表現は、クラシックなようで前衛的でもあり、抑制的でありながら刺激的で、アンビバレントな魅力に満ちあふれています。
アートとファッションの融合をコンセプトに、さまざまなアイテムを展開する高橋さん自身のブランド「HIROCOLEDGE」(ヒロコレッジ)では、2021年にはadidasとのコラボレーションにより、ウェアやシューズ等89ものアイテムを発表。東京五輪ではゴルフのアメリカ代表チームのユニフォームデザインを担当し、その表現が国や地域、性別、TPOといったさまざまな属性を超越しうる存在であることを証明しました。

adidas×HIROCOLEDGE HIROKO TAKAHASHI COLLECTION

adidas×HIROCOLEDGE HIROKO TAKAHASHI COLLECTION

そのアート性は海外でも注目を集め、FENDIやBMWといった世界のトップブランドとも協業を重ねているほか、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)では手がけた着物一式が永久収蔵されるなど、その活動の広がりは枚挙にいとまがありません。
高橋さんが“着物の伝統を革新する“と言うとき、その“着物”には、人が生活のうえで身にまとう、日本伝統の衣服としてだけでなく、それを取り巻く環境や人々の思考にいたるまで、あらゆるものが含まれています。それは言わば、“着物”という価値観、定義、そのものをアップデートする取り組みとも言えるのではないでしょうか。
ミニマルな要素からマキシマルな可能性を生み出し続ける高橋さんは、いかにしてこの境地にたどりついたのか、そしてその表現はどのように生み出されているのか。これまでの経緯から、現在の活動まで話を聞きました。

アーティスト・高橋理子さん

アーティスト・高橋理子さん

ファッションデザイナーを目指し、染織の道へ

「小学生のころからファッションデザイナーを目指していて、高校は服飾デザインを学べる学校を選びました。そこではドレスやスーツを縫えるくらいまで服作りの基礎的な技術を身につけることができたので、さらに生地からオリジナルの服作りをするために、テキスタイルの勉強ができる大学を目指しました。
入学したのは東京藝術大学の工芸科です。ここは“工芸科”というだけあって、伝統工芸の技術を中心に学びます。日本の染織技術はその多くが着物や帯を作るために生まれたもので、それに重きを置きつつも、シルクスクリーンのような現代の技術も学びました。
わたしはもともと染織技術を洋服作りに活かしたいと考えていたということもあり、自分でプリントした生地や、伝統染色技法で染めた生地でシャツやワンピースを作っていたのですが、あるとき、洋服が作れるからといって、着物を染める伝統技法と洋服作りを組み合わせるのはとても安易な考えだと思うようになったんです」

“着物を染める技法を使うなら、まずは着物を作るべき”
高橋さんの決意の背景には、「ファッションデザイナーとして世界を目指す前に、自国の伝統的な衣服である着物を知っておくべきではないだろうか」「着物を学んでから洋服の道に進めば、日本ならではの感性で服作りができるのではないか」という想いがありました。
大学では着物を学ぼうと決断した高橋さんはそのまま大学院へと進み、着物のありかた、そのものを見つめ直すようになります。そしてその道の先に見つけたのが、現在のクリエイティブに通じる“円と線”という要素でした。

「当時、着物はわたしにとって“衣服”でしたが、世間においては、博物館にあるような日常から離れた存在になっていると感じていました。そこで、大学院の修了制作で、着物を純粋に“衣服“として捉えられるような作品を作りたいと考えたんです。
ただ、着物には積み重ねてきた長い歴史の中で、素材、技法、色、柄の組み合わせにより、多くの意味が生まれ、その感じかたも、人それぞれの知識量に左右されるうえに、偏見や固定観念にも取り巻かれている。着物を純粋に“着るもの”として存在させるには、そうしたあらゆる要素を排除する必要がありました。“意味を感じさせない色、柄。感情を呼び起こさない着物とは何だろう?”と考えた末に行き着いたのが、幾何学柄、つまり円と線でした」

大学院終了制作(2002)

大学院修了制作(2002)

歴史、伝統があるがゆえに、自ずと価値、役割、TPOが定まってしまった着物。高橋さんの取り組みは、着物の持つさまざまな因果を断ち切り、再構築する試みと見て取れます。

「まずはファッションの世界でも身近で、円のみで構成されたシンプルな幾何学柄とも言えるドット柄の研究からはじめました。Adobe Illustratorを使って、円のサイズ、間隔を変えてはその印象を検証し、男性らしいとか女性らしいとか、可愛いとか、格好いいとか、そんな感覚をひとつも呼び起こさない、何も属性を持たない幾何学柄を生み出そうとしたんです。
具体的なモチーフを使わず、伝統的な柄を踏襲するでもない、“あたらしい何か”であることも重要でした。円を使いはじめたのはこれがきっかけです」

それは着物の持つ過去とは切り離した、無属性な柄で染め直すことで、いまの時代に純粋に、着物=着るものとして提示する作業だったと言えるのではないでしょうか。
着物というフォーマットを用い、伝統的な染色技法を使いながらも、円と直線によって“着るもの”という衣服としての機能を最大化する。そうしたプロセスによって、着物の役割を再認識させたのです。

属性を持たない、唯一無二の柄

具体的かつ特定の意味を持たないグラフィック。それは無個性を意味するかと言えば、そうではありません。そこから生まれたものは、その性質ゆえにあらゆる属性に対して適応する柔軟性をも備えていたのです。

「円はどの時代にも、どの地域にも存在する身近なモチーフです。太陽も月も、眼の中にも……誰しもがいつでもどこでも目にしてきた形です。
わたしは普遍的な存在を目指してグラフィックを生み出していますが、それは円というモチーフ自体が普遍的な存在だからこそ可能になるのかもしれません。まだ活動を始めて十数年なので、わたしの表現がこの先、どこまで普遍的なものとして存在できるかはわかりませんが……」

こう話す高橋さんですが、10年前、15年前に手がけてきたグラフィックがいまなお、一切の古さを感じさせることなく受け入れられていることは、時代を超えた価値を作り上げつつあることのひとつの根拠となるのではないでしょうか。

髙橋理子さんが手がけた衣服

“何ものでもないからこそ、何にでもなれる”

自身のアートワーク、HIROCOLEDGEのプロダクト、ブランドとのコラボレーション、クライアントワーク……高橋さんの仕事のフィールドは多岐にわたります。
高橋さんがこれまで作り上げてきたグラフィックの中には、言わばマスターピースとして存在するものがあり、特に協業案件では、新規よりも、既存のグラフィックの使用を求められることが多いそうです。これは、高橋さんのグラフィックが、時代も人種も業種も越えて、すでに普遍的な存在であることを意味しているといえます。

「わたしのグラフィックはテキスタイルに限らずいろいろなものに展開していますが、着物に乗せられた図柄と同じものを、大きな壁面レリーフにすればまったく違うものに見えるように、素材、色、大きさ、表現技法やそのものが置かれる状況によって印象は大きく変わります。
具体的なモチーフのない正円と直線で構成されたグラフィックは、受け取る人の想像力次第で見えるものが異なります。つまり、何ものにでもなれる、無限の可能性を秘めていると感じています」

自身のブランド・HIROCOLEDGEでは、正円と直線のグラフィックを着物、浴衣、手ぬぐい「100×35」、手ぬぐいを断裁せずに仕上げた「SLEEVE BAG」、江戸扇子、水うちわ、ストール、ピアス、ワンピースといった種々のアイテムに展開。かたちや素材、表現技法が変わってもフィットするのは、普遍性を備えるグラフィックそのものの魅力というほかありません。
高橋さんはこうしたアイテムだけでなく、着物の“生地を一切ムダにしない”という合理的な構造に着目して「TEI」「BY TWO」「Ⅳ」という新しい衣服の提案も行なうことで、着物に限らず、衣服のありかたそのものを捉え直し、あらゆる固定観念を覆そうとしています。
それは同時に、身近なものごとや、当たり前と思っていることについて疑うことのないわたしたちに投げかけられた問いでもあるのです。

HIROCOLEDGE オンラインショップ

HIROCOLEDGE オンラインショップ。現在は利便性の点から(やむなく)WOMEN・MENS等わけているが、商品の多くは性別、世代等分け隔てなくデザインされている。高橋さんの一連の活動は“結果的に”日本に残る染織や和裁の技術存続、ひいては文化の継承にもつながっている https://www.hirocoledge.jp/

完璧主義かつ合理的な思考にフィットしたIllustrator

正円と直線……高橋さんのグラフィックはすべて、Illustratorで描かれています。
その出会いは東京藝術大学在学中。アップルから発売されたスケルトンのピンクのiMacを買い、Illustratorを導入しました。工芸=手仕事という価値観も根強く、当時は高橋さん以外、パソコンを使って作業する学生はいなかったそうです。

「はじめて着物の制作にIllustratorを使ったのは大学4年生のころです。卒業制作の友禅染の着物の下図をIllustratorで描きました。
友禅染は輪郭線に生地の白が残り、その内と外に色が入るというのが基本です。この下図を手作業で描くには、黒い紙に白いペンで線を描き、不透明の絵の具で着色する必要がありました。
わたしはそれをIllustratorで線を白、塗りに色を設定して描き、下図としてプリントアウトしたのですが、教授からは“ラクをするな”と怒られてしまって。でも、“もうそんな時代じゃない”と思っていたので、次の日、あらためてカラーバリエーションを何十種類も作って持っていったら、“これは便利だな”と風向きが変わったんです」

高橋さんにとって、友禅染の下図作成にIllustratorを使うことは、効率的かつ合理的な選択だったのです。

「着物の下図の色を手作業で変えるというのは本当に大変です。思い通りの色を出すことも、色の組み合わせも、そう簡単には変えられません。その手間が面倒で、無意識に“これくらいでいいかな”という諦めにつながっていたようにも思います。でも、Illustratorを使えば、何百というパターンをMac上でシミュレーションし、原寸で出力することもできる。プリンターも絵の具のように使い、好みの色が出るまで、何度も紙にプリントし、それを実際に染める際の色見本として使う。わたしにとってデジタルツールは、自分のアイデアを具現化するのに、最もフィットする道具だったんです」

髙橋理子さん

“円を描くなら、ゆがみのない完全な円を描きたい”。そんな完璧主義な性格もまた、Illustrator向きでした。

「自分で描いた線のゆがみが受け入れられず、スケッチブックも途中で嫌になって最後まで使いきれないということが何度もありました。ゆがんだものを見たくない、最初からきれいな正円や直線を描きたい。だから、Illustratorと出会わなかったら、いまのわたしはいなかったと思います(笑)。
Illustratorのたくさんの機能を使いこなしている人から見れば、わたしは変わった使いかたをしているかもしれません。正円と直線しか描かないので、使っている機能もとても少ない。Illustratorという“道具”の自分らしい使いかたを見出すことで、それぞれの表現が生まれていくのだと思います」

Illustratorで描いたゆがみのないグラフィックは、手仕事を介するものづくりと組み合わさったとき、大きな存在意義を発揮します。シンプルであるがゆえに、ごまかしが効かず、ときとして職人泣かせな存在にもなるのです。

「最高の技術でもの作りをするなかで、素材や技法の性質上出てくるゆがみやにじみこそが本質的な“あじわい”なのだと思います。ごまかしが効かないグラフィックだからこそ、職人さんの最高の技術を引き出せる。嫌がられることも多々ありますが(笑)、より高いレベルを目指し、道具の改良や工程の見直しをしてくださる職人さんの存在は、わたしの表現活動に欠かせない存在です」

Illustratorを操作する髙橋理子さん

Illustrator+ペンタブレットが高橋さんの作業スタイル

そしていま、高橋さんはPhotoshop iPad版を使い、あたらしいクリエイティブにも挑戦しています。

「Illustratorで描いた正円の連なる図の上に、Photoshop iPad版を使い、具体的に何かをイメージすることなく、その時の心の赴くままに、ドローイングしています。画用紙やキャンバス、和紙などに、鉛筆やペン、水彩絵の具や墨汁で描くなど、さまざまな画材を試していますが、移動中などの時間でも気軽に描ける道具としてiPadも使い始めました。
2021年から武蔵野美術大学の教授に就任し、月並みな言葉ですが、わたしも学生から多くのことを学び、刺激を受けています。これを描き始めたのも、学生たちが、手間を惜しまず、試行錯誤しながら作品制作に向き合う姿に感化されたから。いずれ、これを作品だとか、アートだとか定義付けるタイミングが来るのかもしれませんが、今は、ただただ描きたくて仕方がなく、時間があればあるだけ描いています」

Photoshop iPad版を操作する髙橋理子さん

Photoshop iPad版でも、さまざまな使いかたを検証しながらドローイング。紙に描くことのなかった着物のラフスケッチにも、最近はiPadを使っている

正円と直線によって構成される“何ものでもない”グラフィックは、いま世界のいろいろな場所で、いろいろなかたちで輝いています。それは既成概念を打ち破り、それまでの常識を問い直そうとする、高橋さんへの共感にほかなりません。
そして、その表現活動は、わたしたちの思考のアップデートのみならず、技術革新にまでつながっています。

「現状を見渡せば、世の中はすでに素敵なものや、便利なものにあふれていて、これ以上あたらしいものを生み出さなくても、わたしたちは幸せに生きていけると思います。無駄に廃棄されていくものも多いこの世の中で、すでにあるものと同じようなものを、またここからさらに生み出すことに意義を感じないんです。それでも人は、あたらしいものや刺激的なものを求めてしまう。わたしもそうです。だからこそ、あらたにものを生み出すのであれば、多少なりとも技術革新のきっかけになったり、そのものを取り巻く世界の偏見や固定観念を揺るがすような刺激を生むもの作りをしたい。自分の欲求のままに表現活動をしている中で生まれたものが、結果として社会にポジティブな影響を与えられるのであれば最高だと思います」

髙橋理子さん ポートレートシリーズ

髙橋理子さん ポートレートシリーズ

高橋さん自身が仁王立ちで着物を纏う一連の写真作品。「女性は着物を着たら内股でおしとやかに」と言われることへの違和感から、世間から刷り込まれた価値観や“こうでなければならない”と思い込まされていることへのアンチテーゼとして、それに向き合う高橋さんの姿勢を表現したもの。このシリーズではすべての顔をAdobe Photoshopで同一のものに差し替えることで、高橋さんをモデルではなくマネキンとして機能させている

高橋理子
森羅万象を構成するミニマムな要素である正円と直線によるソリッドな表現で、有限から生まれる無限の可能性を探ると同時に、オリジナルブランド「HIROCOLEDGE」を通じて、アートとファッションの融合を目指す。


Web|https://takahashihiroko.jp/
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